一重項酸素の研究(活性酸素分子の生成,検出,定量)
 大気中に安定に存在し呼吸などの生命活動に不可欠な酸素分子は,基底状態が三重項状態であり常磁性を示す極めて珍しい分子である。これは基底状態の酸素分子が互いにスピンが平行な2個の不対電子を持つためである。三重項状態が基底状態である酸素分子と有機化合物との反応性はあまり高くない。しかし,放電,光,電気化学的方法などにより,酸素分子は反応性が高い活性酸素と総称される酸素種に容易に変換される。ヒドロキシルラジカル(・OH),スーパーオキシドアニオン(・O2-)および励起状態の酸素分子である一重項酸素分子などが代表的な活性酸素である。
 酸素分子が有する16個の電子のうち12個の価電子の配置を図1に示す。酸素分子の最高被占分子軌道は縮退し,軌道角運動量は結合軸方向に量子化されている。エネルギーの等しい2pπ+*および2pπ-*はそれぞれ結合軸周りにh/2π単位で(+1)および(-1)の軌道角運動量をもつ。価電子を低いエネルギーの分子軌道から順にαスピンとβスピンが対になるように2個ずつ配置すると,最後の2個は2pπ+*あるいは2pπ-*に入らなければならない。

 
 縮退した2pπ+*および2pπ-*に2個の電子を配置する方法は図1に示すように3通りある。フントの規則に従い,基底状態は2個のスピンが平行な配置であり,軌道角運動量がゼロのΣ状態である。したがって,基底状態は全スピン角運動量S = 1の三重項状態3Σg-である。他の2通りの電子配置は電子励起状態で全スピン角運動量S = 0の一重項状態であり,(2pπ+*)2(αβ)・(2pπ-*)0は結合軸周りの全軌道角運動量Λ = 2の1Δg状態,(2pπ+*)1(α)・(2pπ-*)1(β)はΛ = 0の1Σg+状態である。基底状態および低エネルギー励起状態のエネルギー準位を図2に示す。基底状態(3Σg-)から最低電子励起状態(1Δg)への電気双極子遷移は,スピン角運動量,軌道角運動量およびパリティに関していずれも禁制のため,遷移確率は極めて小さい。そのため,一般的な一重項酸素の生成法として光増感法が用いられている。 
 
図1 酸素分子の電子配置 
 

図2 酸素分子のエネルギー準位

 当研究室では光励起された有機化合物からのエネルギー移動による一重項酸素分子(1Δg状態)の生成と磁気共鳴法による検出法を研究している。一重項酸素分子は軌道角運動量が死滅せずに残っているため,全スピン角運動量ゼロの一重項状態であるにもかかわらず電子常磁性共鳴(Electron Paramagnetic Resonance, EPR)による研究が可能である。電子スピン共鳴(Electron Spin Resonance, ESR)よりも電子常磁性共鳴(EPR)をより一般性のある学術用語とすべきであるという議論において,必ず引用されるのがこの一重項酸素である。
 
現在は,気相において紫外線照射された有機化合物からのエネルギー移動により,一重項酸素分子が生成することをEPR法で直接的に確認することができる(図3)。また,EPR信号強度の減衰曲線を観測することにより,一重項酸素分子の寿命を比較的精度良く求めることが可能になった。低圧下(0.6 Torr)で測定した結果,一重項酸素の寿命は 7 s であった。さらに,一重項酸素分子と基底状態の酸素分子を同時に観測することが可能であるというEPR法の特色に着目し,EPR法による一重項酸素分子の定量法を開発した。比較的低い圧力下では,全酸素分子の約30%が一重項酸素分子として存在する状態を長時間維持できる「一重項酸素発生器」と呼べるシステムの試作に成功した。 詳細は下記の文献[1-3]に記載されている。

 

図3 基底三重項および励起一重項酸素のEPRスペクトル
(気相,増感剤:オクタフルオロナフタレン)

 2012年度からは一重項酸素分子からの近赤外発光(約1274 nm)検出装置を整備し,磁気共鳴検出と発光検出の両面から研究を行っている(図4, 5)。紫外線から肌を守るサンスクリーン剤は紫外線のエネルギーを吸収して励起状態になるが,励起状態からのエネルギー移動により一重項酸素分子が生成することがある。当研究室では時間分解近赤外発光法を用いて,UV-B吸収剤として使用されているショウノウ誘導体(4-Methylbenzylidene)camphorや数種のUV吸収分子の励起三重項状態から一重項酸素分子が光増感生成することを確認し,生成量子収量および寿命を求めた。 詳細は下記の文献[4-7]に記載されている。
 ナノ秒パルスレーザー励起によって生成した一重項酸素りん光強度の時間変化Itは,図5に示すように立ち上がり曲線と減衰曲線からなり,下記の二種の指数関数で表される。
 It = c × ΦΔ × τΔ/(τΔτT) × [exp(– t/τΔ) – exp(– t/τT)]
ここでc:比例定数,ΦΔ : 一重項酸素生成量子収量,τΔ : 一重項酸素の寿命,τT : 増感剤の励起三重項寿命である。
 水溶性UV-A吸収剤としてロレアルグループにより開発され,世界的に使用されているメギゾリルSXについて一重項酸素の光増感生成について,時間分解近赤外発光法による研究を行った。空気飽和水溶液中では一重項酸素の光増感生成は検出限界以下であったが,酸素飽和緩衝溶液中(pH 7.4)では生成が確認され,生成量子収量0.0021および寿命3.6μsと求められメギゾリルSXの一重項酸素生成量子収量は極めて小さいことが判明した。詳細は下記の文献[9]に記載されている。
 サンスクリーン剤に調合されている化合物には一重項酸素分子を光増感生成させる分子と,その逆に消光機能を有する分子がある。UV-A吸収剤として汎用されている化合物の中では比較的光安定性が高いユビナールAプラスについて,近赤外発光の減衰曲線測定から一重項酸素消光速度定数を求めた。その結果,アセトニトリル中では認可されている10 wt%添加により一重項酸素の寿命が1/6に短くなることが判明した。詳細は下記の文献[8]に記載されている。
 UV-A吸収剤であるアントラニル酸メンチル(商品名:Meradimate)は紫外線を吸収して一重項酸素を発生させる難点があるが,ビタミンE添加により発生が抑制されることが判明した。詳細は下記の文献[10]に記載されている。
 世界的に汎用されているが光不安定なUV-A吸収剤である4-tert-butyl-4'-methoxydibenzoylmethane (BMDBM)の光安定化剤であるコラパンTQは量子収量0.44で一重項酸素を発生させる問題がある。UV-B吸収剤であるサリチル酸エステルを添加すると一重項酸素生成が抑制され,その機構はコラパンTQの励起一重項状態の消光であることを明らかにした。詳細は下記の文献[11]に記載されている
 一重項酸素を消光する物質は抗酸化剤として数多くの研究が行われ,ビタミンCおよびビタミンE類は抗酸化能を有することが知られている。当研究室ではアスコルビン酸(ビタミンC )とエチル誘導体およびトロロックス(ビタミンE 誘導体)がリボフラビン(ビタミンB2,生体内光増感物質)からの一重項酸素生成を抑制する機能を有し,リボフラビンの励起状態を消光することが生成抑制機構であることを明らかにした。詳細は下記の文献[12]に記載されている。
 水溶性UV-B吸収剤としてサンスクリーン剤に配合されている2-phenylbenzimidazole-5-sulofonic acid (PBSA)は同じく水溶性ビタミンB2であるリボフラビンから一重項酸素が生成するのを抑制する機能を有することが分かった。リボフラビンの光励起三重項状態をPBSAが消光することが観測された生成抑制機構であることを明らかにした。詳細は下記の文献[13]に記載されている。
 抗マラリア薬であるキニーネ(QN)は紫外線を吸収して一重項酸素を生成しその生成量子収量はpHに依存することを明らかにした。りん光およびESRスペクトルを各種pHにおいて測定し,中性分子QN,プロトン付加モノカチオンQNH+およびプロトン2付加ジカチオンQNH22+の最低励起三重項状態の性格を明らかにした。詳細は下記の文献[14]に記載されている。


[1] Chemical Physics Letters 457, 312-314 (2008).
[2] 電子スピンサイエンス 9, 44-47 (2011).
[3] CSJカレントレビュー 21, 活性酸素・フリーラジカルの科学,137-142 (2016).
[4] The Journal of Physical Chemistry A 117, 1413-1417 (2013).
[5] Photochemistry and Photobiolog 90, 727-733 (2014).
[6] Photochemical & Photobiological Sciences 14, 807-814 (2015).
[7] Photochemical & Photobiological Sciences 14, 1651-1659 (2015).
[8] Photochemical & Photobiological Sciences 16, 1449-1457 (2017).
[9] Applied Magnetic Resonance 51, 567-580 (2020).
[10] Photochemical & Photobiological Sciences 19, 913-919 (2020).
[11] Photochemical & Photobiological Sciences 18, 1556-1564 (2019).
[12] Journal of Photochemistry and Photobiology B: Biology 191, 116-122 (2019).
[13] Chemistry Letters 52, 798-802 (2023).
[14] Photochemical & Photobiological Sciences 22, 2851-2859 (2023).



図4 一重項酸素の時間分解近赤外発光スペクトル

増感剤:ローズベンガル,溶媒:アセトニトリル-緩衝液(pH6.8) 1:1 v/v,励起波長:532 nm
観測時間:レーザー励起後 1~10μs



 
図5 一重項酸素の近赤外発光の立上りおよび減衰曲線

増感剤:ローズベンガル,溶媒:アセトニトリル-緩衝液(pH6.8) 1:1 v/v,励起波長:532 nm,観測波長:1274 nm,
実線:riseおよびdecay timeによるシミュレーション
最終更新日:2023年11月1日
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